目標は立つか立たないかの問題であって、立てる立てないの問題ではない。
QCサークル活動では目標を立ててはならない。目標の設定に必要なデータがないからである。目標が立つというなら、そのデータ的根拠を示さねばならない。 データ的根拠もなしに大きな成果を吹聴することをカンとハッタリと称して、品質管理の世界では恥ずべき行為とされ、厳禁である。 目標の設定が必要なのは、第8章:方針管理の年度方針の場合である。方針管理のような失敗が許されない一発勝負の大改善では、目標が設定できる程にデータが揃い、研究が進んだことの証が必要だからである。 |
2020年東京オリンピック施設の例を挙げて、根拠となるデータもなしに立てた目標が招く弊害を示そう。
施設名 | 黒字額(億円/年) |
有明アリーナ | +3.6 |
海の森水上競技場 | -1.6 |
アクアティスクセンター | -6.4 |
カヌー・スラロームセンター | -1.9 |
太井ホッケー競技場 | -0.9 |
夢の島公園アーチェリー場 | -0.1 |
合計 | -7.3 |
TBSニュースの報道によると、これらは全てオリンピック閉会後に娯楽施設として運用を予定し、相当額の利益目標を立てて建設したものである。ところが、オリンピック閉会後に改めて見通しを算定すると、上表のように毎年の赤字が続く見通しだという。
本論に入る前に、用語の区別を示す。
・願望(ビジョン)=実現できるか分からないが、何とかして将来実現したい姿(例:不良半減、コスト30%減、売上倍増、新分野の開拓、10%人員削減)
QCサークルが「目標」を設定した~という場合の多くは、目標ではなくビジョン(願望)である。
・努力目標=達成する可能性は比較的低いものの、達成を目指して努力することを主な目的として設定された目標(例:110歳まで生きようとする努力)。
これは日常用語であって、正しい目標ではない。
・改善目標=改善手段が分かっている場合の改善予測値。その手段によって狙う的。(例:実験で確認済みの手段を用いて実現しようとする改善成果)
改善目標には、実現手段とデータ的根拠が必要であり、根拠もないのに大げさな目標を発表することを、俗にハッタリという。
自民党総裁選の立候補者である河野氏は、首相になった場合の子供庁について、「子供の貧困、子供のいじめ、子供の自殺をゼロにするのが目標」と宣言している。もし手段がなく、努力目標だというなら、ハッタリである。
・管理目標=既に実現され、or 実現可能と知っていて、実現し維持しようとする成果(例:設計値や管理規格値)
〔注〕QCサークル活動は、目標を決めるのに必要なデータを持ち合わせず、CAPDサイクルを手段が尽きるまで繰り返す活動であって、目標を設定しないのが正しい。
データもなしに目標を立てることを「ハッタリ」という。
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これは、「データ的根拠」、すなわち、裏付けとなる事実に基づいて発言せよ、という品質管理の鉄則をいう。
〔注1〕早大名誉教授:池澤辰夫氏は、著書「品質管理べからず集」において、QCストーリーから目標の設を除外している。
〔注2〕方針管理のような大改善は失敗が許されないから、年度計画では成功を確信させる「データに基づく目標」の設定が不可欠である。参照 → 年度方針・年度計画の立案
以下、この結論について考察してみよう。
目標と願望が同じ意味ではないことを確認しよう。まず、日本語としての意味を小学館デジタル辞泉で確認する。
目標とは、
1.そこに行き着くように、またそこから外れないように目印とするもの。例:「島を目標にして東へ進む」
2.射撃・攻撃などの対象。まと。例:「砲撃の目標になる」
3.行動を進めるにあたって、実現・達成をめざす水準。例:「目標を達成する」、「月産五千台を目標とする」、「目標額」
QCサークルや方針管理で使われる目標の意味は、第3の意味である。
ここで問題なのは3.行動を進めるにあたって、実現・達成をめざす水準
でいう「めざす水準」の意味は次のどれか、である。
以下、しばらく、この問題を考えよう。
第3の意味も、第1及び第2の意味からかけ離れてはならず、同様に類推すべきである。
すると、「船を持たない者は島を目標にできない」し、「大砲を持たない者は砲撃目標を設定できない」のと同様に、達成手段がなければ目標を設定することはできない。
米軍などは武器で狙う標的を "target" と呼ぶが、これを日本語で「目標」と翻訳するのが普通である。
以上を武器と目標に例えて図示すると、次のようになる。
ここに、格言=手段なければ目標なしが成立する。
普段の日常生活では、あまりうるさいことを言わずに、気軽に「〇〇を目標にする」という。しかし、多くは「願望」のことを目標と表現していることが多く、目標と願望を厳密に区別していない。
日常用語でも、目標と願望は異なる。
普段、何かと目標の言葉を使いたがる人でも、次のようには言わない.
上のようなことは言わないが、そのような願望は持っている。つまり、願望と目標とは同じ意味には使われない。
どこが違うか? 2つの場合が考えられる。
日常用語としての「目標」は、この後者の意味で使われるように見える。つまり「頑張れが何とかなりそうだから、これを目指して頑張ろう」という努力目標のことを「目標」と呼んでいるように思える。
この後者が、QCストーリーで「設定せよと」要求される目標なのだろうか? しかし、ここに問題がある。
努力目標は日常用語であって、専門用語としての「目標」ではない。
「手段を持たないが努力すれば何とかなるかも知れない」というのは、いわば、カン、ハッタリ、予言の類である。その場合の「目標達成率」は、預言が当たったかどうかの問題になる。日常用語なら、それでも支障はないが、品質管理は「データでモノをいう世界」であり、「努力目標」と「正式の目標」を同一に扱うのはムチャな話である。
「新工場を建設して売り上げを3倍にしたい。今は手段を持たないが、努力すれば何とかなりそうだから、何とか10億円の融資をお願いする」と銀行に努力目標を持ちかけて、相手にされるだろうか? つまり、この手の努力目標は、本人が心の中で個人的に設定するのは構わないが、他人に向かって公表できる性質のものではない。公表すれば「ハッタリ」になる。
日本規格協会のTQC用語辞典によれば、当初のQCストーリーには「目標の設定」はなかった。早大名誉教授:池澤辰夫著「品質管理べからず集」のQCストーリーにも目標の設定は含まれない。ところが、その後、心ない学者が目標を追加した。
なぜ、追加したのだろうか? それには事情があった。
なぜ、「目標の設定」を追加したのか?
これは心理学や行動科学の「D.マグレガーのY理論」という「やる気を起こさせるモチベーション理論」から来ているらしい。いかにも主観説らしく「心理的な方法で解決しようとする傾向」が見え見えである。
人は自分が進んで身をゆだねた目標のためには自発的に働くものであり、条件次第では責任を引受けるばかりか、みずから進んで責任をとろうとし、企業内の問題を解決しようと比較的高度の想像力を駆使し、創意工夫をこらす能力をたいていの人はそなえている。
つまり強制されるのでなく、自分が進んで身をゆだねた目標には「やる気」や「責任感」が生まれ、創意工夫をこらして成し遂げようとするものだ、との考え方である。
このY理論それ自体の正誤を論じる能力を、筆者は持ち合わせていない。
しかし、QCストーリーは目標を強制しており、もはやY理論ではあり得ない。強制されるから「やむを得ず設定する目標」であって、「自分が進んで身をゆだねた目標」ではないのである。
要するに、こんな単純な矛盾に気づかない学者先生方が決めたものがQCストーリーの目標である。
ユダヤ系オーストリア人経営学者として有名なピーター・ファーディナンド・ドラッカーは、全世界の経営者に「結果を決めてかかれ(Define what the results are.)」と指導し、一世を風靡した。
これは、「だらだらと成り行きに任せるのではなく、明確なビジョンを設定して経営を革新せよ」という意味に取れる。この思想は、→ 方針管理 において重要である。方針管理は、失敗が許されない、やり直しがきかない、一発勝負の大改善(イノベーション)であって、目標の設定が不可欠である。
しかし、QC活動(QCサークル、小集団)は、「もう少し良くならないか」と、ちりも積もれば山となる、七転び八起の CAPDサイクル を繰り返して、小さな改善を手段が尽きるまで積み重ねる活動である。目標を設定して達成する一発勝負のプロジェクトではない。
要するに、経営革新に関するドラッカーの目標理論を学者先生方が誤ってQCストーリーに持ち込んだのである。
QC活動の進め方として、目標の設定をしないのが正しい。
以下、この問題を詳しく説明する。
古典的な小集団(QCサークル)活動では、QCストーリーに「目標の設定」というステップがある。しかし、これは次の理由により全くの間違いである。
小集団活動のような小改善は、失敗が許されるから、CAPDサイクル を繰り返して行う。すなわち、「失敗してもいいから、試しにやってみよう」を繰り返す活動である。
〔注〕
1. 新企画の場合はPから始めるPDCAサイクルであるが、QC活動は現状の改善だから、Cから始まるCAPDサイクルになる。
2. 方針管理の研究段階で行う試行錯誤は、新企画としてPDCAサイクルの場合が多い。→ 開発段階のPDCAサイクル
QC改善における小改善は、目標を定めて達成する活動ではない。手段が尽きるまでCAPDサイクルを繰り返す活動だから、終わってみなければ成果は分からない。従って、小集団(QCサークル)活動では目標を設定しないのが正しい。
QC活動の正しいやり方は、次のようなCAPDサイクルを繰り返す活動である。
〔注〕QCサークル活動で目標を設定できる唯一の例外は、普段の業務の中で試験的に対策を講じる等によって実現可能な手段を知っている場合である。
しかし、その場合でも目標は設定すべきではない。目標を達成してなお改善の余地があれば活動は続くからである。
〔参照〕小改善と大改善の区別、「中改善」の有無について → 小改善と大改善の区別を参照。
小集団活動の目標の意味や設定の仕方について、50年前には20個ほどの学説があった。
なぜ、これほど多かったか? どの学者も主観説の立場であり、主観説である限りは正解が見つからないから、いろいろな意見に分かれたのである。
主観説とは、データによらず、心理的な操作によって管理・改善を進めようとする立場であり、次のような特徴がある。
以下、主観説の立場をとる著作から引用して吟味しよう。
日科技連:細谷克也氏から引用
グループの成長のためにも、努力してつぶせる、少し高い目標を設定します。
目標設定には、次の3要素を必ず入れて目標を明確に表現することが重要です。
- 何を(特性):管理特性
- いつまでに(納期):テーマ完了時期
- どうする(目標値):いくらを → いくらに
担当者はできそうな範囲で、目標を設定する傾向にあります。
個人又はグループの成長のために、やや高めの「挑戦的な目標」になるように誘導します。
「努力してつぶせる、少し高い目標」は、将来を見通せる預言者でなければ知り得ない。QC活動はぶっつけ本番であって事前に深く研究する訳ではないから、「どのような成果をいつまで出せるか、事前に発表せよ」との要求は、途方もなくムリな要求である。
この「途方もなくムリな要求」をどうクリヤすればよいか? そう、ウソ話を作る以外にない。
品質管理は「データでモノをいう世界」である。「できそうな範囲」とか「やや高め」のようなカンに頼った予言・ハッタリ競争は廃止しなければならない。
指導的立場にあるべき研究者の見解はどうか?
加藤雄一郎氏(名古屋工大教授)の見解を拝見しよう。彼は、理想追求型QCストーリーの確立に向けて
と題して、2012.8 JSQCニューズで目標について触れている。
それによると、目標の上には目的がある
とのことである。以下、引用する。
目標の上には目的がある。
『三人のレンガ積み』というお話に出会いました。ヒントは目標と目的の関係にありました。目標の上には目的がある、目的さえあれば、次の目標は自ずと生まれる。
この大原則が、『目的に基づく新規目標の継続的創造』に主眼を置いた理想追求型QCストーリーの根幹となっています。
この解説に接して、「サッパリ分からん」と思う人が多いと思うが、筆者にもチンプカンプンである。まず、彼の「目標」とは、理想
、つまり願望・ビジョン・ニーズである。この第一歩に間違いがある。
そこで、どのような願望を持てばよいか分からないときは、目的を思い出せというのである。目的が分かれば、何が欲しいかすぐに分かる。ただ、これだけのこととしか理解できない。これが大学の学者の説だとは、何とも情けない話である。
「目的が分かれば目標も分かる」などの議論は、単なる言葉の遊びであって実質的な中身は空洞だ。それは、次の思考実験で明白である。
いま、工程に慢性不良が発生している。理想
は何か? 不良ゼロが理想
かどうかは、にわかに分からない。なぜなら、無出費で実現可能なら不良ゼロでよいが、何億円もかかる場合もある。
例えば、今の製造工程をそっくり作り替えないと「不良ゼロ」にはならい。工場の建物も機械も全部新設するには5億円かかる。しかし、現在のままだと年額100万円の不良損失で済む。
さて、理想、ありたい姿
は何だろうか? 「不良ゼロ」がそうだとは言えない。
では、目的を考えよう。目的は「低コスト、短納期で、不良を少なくすること」である(QDC一体管理)。それで? 彼が言うように、目標は自ずと生まれたか?
「目標」を説明するのに、理想追究
とか、目的が分かれば目標は自ずと生まれる
などの主張は、無益な言葉遊びである。QC活動に、このような言葉遊びを持ち込んではならない。